歴史を英語で(下手だけど) 第2回 唐の頭に本多平八

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本多平八郎忠勝

歴史を英語で話してみよう(下手だけど)の第2回は、【本多(平八郎)忠勝】です。歴史好きな方が戦国一の武将は?と聞くと多くの答えが返ってくるのが本多忠勝です。戦国無双などのゲームでも最強ですよね。

誰ですか?と思う方もいるかも知れませんが、戦国時代、徳川家康の武将で、徳川四天王の一人として数えられています。数々の伝説が残っている忠勝を英語で追ってみたいです。ですが、その前に日本語で整理してみました。

唐の頭に本多平八

”家康に過ぎたるもの二つあり 唐の頭(からのかしら)に本多平八”

「(徳川)家康にはもったいないものが二つある 中国産の兜(かぶと)とそれに本多平八だ」

有名な一言坂の落書で敵の武田軍の兵が書いたとされる本多忠勝の称賛の言葉ですね。

京を目指していた武田信玄は、徳川家康と対峙することになります。徳川軍が偵察を行った際の一言坂(静岡県磐田市付近)の戦いでは、武田軍と兵力の差があり、撤退戦を決めました。忠勝はその撤退戦で殿(しんがり・最後部)を受け持ち、見事に撤退戦を切り抜けたそうです。一般的に撤退戦の殿役はかなり難しいとされています。敵を引き付けつつ戦いながら、味方を逃がさなければいけないからです。

また忠勝は13歳に初陣を飾っており、生涯57度の戦いで傷一つなかったそうです。一言坂の戦いでは、殿でしたが、先陣で戦うことが多かったそうです。

そんな忠勝が持つ槍も有名です。槍の穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つに切れたそうで「蜻蛉切(とんぼきり)」と名付けられました。後に日本三名槍に数えられています。また鹿の角の兜(鹿角脇立、かづのわきだて)と鎧(黒糸縅胴丸具足、くろいとおどしどうまるぐそく)も有名ですね。

さらに、その名は織田信長(家康の同盟相手)にも響き、「花も実も兼ね備えた武将である」と家臣に言ったとのこと。

また小牧・長久手の戦い(徳川家康対豊臣秀吉)では、忠勝500の兵で8万の秀吉軍と対峙し、川で馬の口を洗う豪胆な忠勝に秀吉軍は攻めるのをためらったそうです、秀吉からは「日本第一、古今独歩の勇士」と言われました。

関ヶ原の戦いでは、西軍・島津義弘の鉄砲隊に自身の愛馬(三国黒:みくにぐろ)を撃たれても、配下の馬で戦い続けたそうです。

伝説だらけの忠勝ですが、死ぬ間際に小刀で彫り物をしていたとき、手を滑らせ、「本多忠勝も傷を負うとは終わりだな」と言ったそうです。

天下統一後、(三重県)桑名藩初代藩主として内政でも活躍しました。

史料的に確実と言えない部分が多いので、有名な伝説を主にご紹介しました。

参照:日本三名槍

日本号(にほんごう):正親町天皇、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、福島正則、黒田家と伝わった槍
蜻蛉切(とんぼきり):本多忠勝の槍
御手杵(おてぎね):結城晴朝(ゆうきはるとも)が作らせ、結城秀康(家康の次男)へ

参照:徳川四天王
酒井忠次:政治・軍事で家康を支えた四天王筆頭。
本多忠勝
榊原康政:馬印に「無」の文字を掲げ、戦で忠勝と競い合った名将
井伊直政:井伊の赤鬼と呼ばれた四天王最年少の将。

参照:その他の徳川家臣
石川数正、本多正信、渡辺守綱、服部半蔵など。

もっと本多忠勝を調べたい方。ご参考にしてください。

「信長公記」太田牛一著、16世紀後半。織田信長の公式記録。一次資料。
「三河物語」大久保忠教著、1626年頃。徳川寄り。
「徳川実紀」林述斎著、江戸幕府の公式史。やや脚色ありか。
「甲陽軍鑑」武田家の軍記、伝説化している史料が多い。
「名将言行録」江戸時代。史料価値低いか。

一言坂の戦いの部分を英語で書いてみる(吹き出しはChihiro先生の添削)

Previously, my selected anecdotes were regarding Ieyasu Tokugawa. Next essay’s main character is “Tadakatsu Honda.”

Two things were too good for Ieyasu. It’s a Chinese rare helmet and Heihachi Honda.”Opponent Shingen Takeda’s soldier said.

Before the main battle between Ieyasu Tokugawa and his opponent, Singen Takeda, Ieyasu sent out his reconnaissance troops, including his subordinate Tadakatsu Honda.

Ieyasu also moved troops forward after Tadakatsu. Unfortunately, Ieyasu was found by Takeda’s troops because they had an unexpected rapid pace.

Immediately, Ieyasu decided to retreat from the battle because of the different number of soldiers.

Tadakatsu was allocated the troops’ rear. Generally, the rear of troops is the most difficult and dangerous position when troops retreat from the enemy.

The position’s roles were defending Ieyasu, beating off the enemy, and defending himself.

Brilliantly, Tadakatsu did his role.

These were named “Battle of Hitokotozaka.

エッセイを英語で書いてみて感想

なんか最後のほうがアッサリ終わっているので、もうちょっと工夫したいんだけど、よくわからない状態でした。すっごく時間がかかりました。添削後の感想、contain じゃないですよね(^_^;)。なかなか英語が上達した感じがしないですが、懲りずに頑張ってみようと思っています。

STEP
一言坂の戦い

前哨戦、家康が武田軍に思いもよらず遭遇し、撤退を決める。

STEP
三方ヶ原の戦い

徳川・織田連合軍 対 武田軍

といった順番なのですが、いろいろ都合上、逆の時系列でのエッセイ(第1回・三方原の戦い後〜と第2回・一言坂の戦い)になってしまいました。混乱させたら申し訳ないです。

まとめ

今回も更新に時間がかかってしまいました。本多忠勝の伝説が多岐に及ぶので調べるのも大変でした。

ちなみに忠勝の娘である稲姫(小松姫)は、真田信之に嫁ぎます。沼田城で信之がいない時に籠城を指揮したとも伝えられています。さすが忠勝の娘ですよね。

今回、前回と取り上げたのは徳川家。徳川家康が若い頃の話で武田軍に大敗しましたが、その大敗後、自身の負けた姿を絵に残させています。こういう負けから教訓を活かそうという家康の姿勢が、彼を天下人にさせた理由の一つだったのかもしれませんね。

では、またですね。

りつ

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